ギュウゾウ

不遇の策士
清河八郎を墓参、伝通院を訪ねる

今回の「偉人墓地の旅」は、
伝通院に足を運ぶ。
まずは伝通院について。

伝通院(傳通院、でんづういん)。
正式名称:無量山 傳通院 寿経寺
東京都文京区小石川3丁目14−6。
東京メトロ・丸ノ内線・南北線の後楽園駅より徒歩10分
都営地下鉄・三田線・春日駅より徒歩10分。



 傳通院(でんづういん)は、今から約600年程前の応永22年(1415年)、浄土宗第七祖了誉聖冏上人が開山したお寺です。当時は小石川極楽水の小さな草庵で、無量山寿経寺という名で開創されました。それから約200年後の慶長7年(1602年)、徳川家康公のご生母於大の方が逝去され、この寿経寺を菩提寺と定められ、於大の方の法名「傳通院殿」から「傳通院」と呼ばれるようになり、徳川家の庇護のもと大伽藍が整えられました。
(伝通院ホームページより)

 文豪・永井荷風は「パリにノートルダムがあるように、小石川にも伝通院がある」と言い、夏目漱石も名作小説『こゝろ』の中で伝通院にふれている。そして伝通院墓所には、於大の方(家康の母)、於奈津の方(家康側室)、 千姫(二代将軍徳川秀忠の長女、豊臣秀頼・本多忠刻の妻)などの徳川家関係者はじめ浪士隊結成の発案者・清河八郎、眠狂四郎無頼控で有名な作家・柴田錬三郎、詩人の佐藤春夫、洋画家の高畠達四郎ら文化人、そして指圧の第一人者‘ジェット浪越’こと浪越徳治郎と蒼々たる偉人が眠っています。

 どうですか、墓マイラーの参る心を激しく揺さぶるすごいお寺でしょう!















1.JPG伝通院(傳通院、でんづういん)

なんとも感慨深い……

  加えて、この地は新選組マニアにとってまさに聖地と言っても良いお寺なのだ。幕末期を芝居舞台として見るならば、花形役者が薩摩、長州、土佐を中心にする志士たち、敵役のスターが新選組であろう。

 新選組の前身である浪士隊が、清河八郎の発案で召集されたのがここ伝通院の塔頭の一つで伝通院前の福聚院(ふくじゅういん)北側にあった処静院(しょじょういん)なのだ。浪士隊の結成は伝通院で行われたものという誤解があるが、実はお隣にあった伝通院の塔頭処静院です。

 文久3年(1863年)2月。若き近藤勇、土方歳三、沖田総司、芹沢鴨らのちに新選組の中心人物となる面々は、青雲の志を持ちこの地に集まった。この土をこの石段を彼らが踏んだのだと思うと感慨深い。
 新選組マニアとしては、山内(境内)を歩く時に「まだ彼らの温もりが残ってるんじゃないか」と大事に大事に進むからなかなか前に進まない、がははは。
 浪士組250人は、清河八郎、山岡鉄舟らの呼びかけで集まったのだが、残念ながらその処静院は廃寺になり今は残っていない。山門入り口近くに「不許葷酒入門内(くんしゅもんないにいるをゆるさず)」と刻まれた浪士隊結成の処静院跡の石柱がたっているのみ。

 ちなみに、石柱は後年に移設されたもので、実際に浪士たちが集まった処静院は現在の伝通院敷地外左手で住宅地になっている。現地には、東京都文京区教育委員会による『処静院跡』と『処静院跡の石柱』の説明板がある。

 伝通院の墓所には煌くばかりの偉人たちが眠っているが、偉人墓地の旅、今回のメイン墓参は維新回天偉業の魁・清河八郎!

 清河は、天保元年(1830年)10月10日、出羽荘内清川村に生まれる。18歳の時に江戸に出て、剣技は北辰一刀流免許皆伝。勉学では江戸幕府の学問所・昌平黌(しょうへいこう)に学び、弱冠25歳で江戸神田三河町に清河塾を開いた文武兼備の英士であった。清河は、万延元年(1860年)に山岡鉄太郎(鉄舟)らと共に虎尾ノ会を結成し、過激な攘夷運動に身を投じていく……。














2.JPG浪士隊結成の処静院跡の石柱

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清河は神になった

 明治維新は主に薩摩、長州、土佐など京都以西の志士を中心に進められたのだが、清河は東北の庄内藩にある僻地の村出身だ。そこから身を起こし、薩長土志士に先駆けて倒幕運動を引っ張り、「維新回天偉業の魁」(徳富蘇峰が称す)と呼ばれるまでになった。

 これは偉業中の偉業であり、清河の功績や行動力、そして文武両道の英傑ぶりは現在、不当に低く評価されている。

 評価が低いのは策士としてのイメージが強いからか。

 伝通院は、徳川将軍家菩提寺は筆頭に芝の増上寺、次席に伝通院、そして上野の寛永寺。これを「江戸の三霊山」と言い幕府より庇護されていた由緒あるお寺。ここに倒幕の為の要員を集めたのだからこれは大胆にも程があるだろう。

 幕府の肝煎りで集めた浪士たちは、京に上り清河の策により倒幕の兵に変貌するのだが、それに異を唱えた芹沢鴨、近藤勇らが隊を抜けてのちに新選組となる。そして、浪士隊を率いて江戸に戻った清河は文久3年(1863年)4月13日、山岡鉄舟宅の来訪後、麻布一ノ橋で佐々木只三郎らに斬られた。
 清河は才が走りすぎたゆえ幕府及び佐幕派に睨まれ、後世には幕末ファンから疎(うと)まれる存在となってしまった。清河の援軍は山形県庄内地方の人くらい?(失礼、言いすぎでした)

 山形県東田川郡庄内町清川には、文武両道の神として清河八郎を奉った清河神社があり、毎年5月5日(こどもの日)には例大祭と清河八郎顕彰剣道大会が開催されているそうだ。

 清河は神になったのだ。


いざ墓参る!!

 清河の才に敬意を表しつつ、いざ墓参る。

 本堂より墓所に入ると五輪の大塔が目を引く、徳川家康の母・於大の方の立派な墓石がある。そこから左奥へ進んだところに『贈正四位 清河八郎正明之墓』という石柱と、文京区教育委員会による『清河八郎墓』というスチール製の説明板がある。
 華美さをおさえた墓石は三つ、真ん中に『清河八郎正明墓』、左側に清河の妻お蓮の『貞女阿蓮墓』、右に清河の本名である齋藤家ご子孫一党の『齋藤家之墓』がある。

 武士の本懐である文武両道の達成者に敬意を表し心を込めて合掌。

 前出の庄内町の歓喜寺にも妻・お蓮と共に清河のお墓があります。
 さて、余談ではありますが、墓所入り口の寺務所右側に立派な柴田錬三郎のお墓があります。ここには、横尾忠則設計による白御影石八段重ねのピラミッド型墓碑、球形のオブジェがあり、山門にある「指塚」とともに参拝者の目を強烈に引くアイコンとなっているのだが、なんと、柴錬夫人の大伯父は清河八郎であるそうです。

 剣豪小説で一時代を築いた文豪・柴田錬三郎のお墓に手を合わせ、今回の偉人墓地の旅「伝通院・清河八郎編」今回も充実の中で墓参った!

3.JPG『贈正四位 清河八郎正明之墓』



4.JPGスチール製の説明板

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