大河ドラマ「龍馬伝」始まった
今年のNHK大河ドラマは、昭和43年(1968年)の「竜馬がゆく」から待ちに待って42年。満を持して国民的ヒーロー、坂本龍馬が主人公の「龍馬伝」となった。
日本全国、そして海外にも広がる龍馬会(愛好会)はその数なんと100以上! この人気者をあつかうに当たり、ギュウゾウも手抜き無しのガチンコで臨みます。
坂本龍馬編は、前後編の2回に渡っての偉人墓地の旅ぜよ!
まずは聖地巡礼から。
龍馬のお墓は京都にあるのだが、類まれなる行動力であった彼は日本中に足跡を残している。高知、長崎、京都……と、聖地巡礼の候補地はたくさんある。その中で今回は、龍馬が‘開眼’したと言っても過言ではない、江戸での足跡を追いたい。かなり渋い巡礼になるが、地図と時刻表を睨んでコレというコースを作った。
前編は、名づけて「龍馬の青春・江戸聖地巡礼!」である。
今回は「1・2のアッホ!! 」「いっしょけんめいハジメくん」の漫画家・コンタロウ先生や歴史好き女子などが同好の士として同行してくださった。
開眼前夜、龍馬は勝海舟を斬りに……。
赤坂駅(地下鉄千代田線:5b出口)に11時
赤坂駅集合で巡礼スタート。駅から徒歩7分で「勝海舟邸跡」(東京都港区赤坂6-10-39、ソフトタウン赤坂)へ。ここは、 文久2年(1862年)龍馬が千葉重太郎と共に「勝という奸物がいるので一緒に斬ろう」と暗殺しに行った勝海舟の私邸跡である。
結局、斬るどころか、勝に感化されその場で弟子入りしてしまうのだが、この付近を刀の目釘にツバをつけて龍馬が歩いていたと思うとワクワク・ドキドキする。史実に「タラレバ」を考えてしまうのは歴史好きの癖であるが、この時に勝を斬っていたらと思うと……ああいかんいかん、最初の巡礼地でこんなに力が入っては最終地点まで届かない。遠く文久の世に思いを馳せて次の巡礼地へ。
ちなみに、勝海舟邸跡は元氷川小学校があった場所にも「勝安房邸跡」の碑は立っているが、この屋敷は維新後に勝海舟が住んだところであるから間違わないように。龍馬が訪れた勝邸は、氷川神社横の氷川坂下にあるレストラン(赤坂6丁目10)脇に史跡説明パネルと共に「勝海舟邸跡」碑が立っている。
龍馬が通った道場の場所には2説、
身を寄せていた土佐藩邸は、
上・中・下屋敷の計3ヶ所説がある。
まずは、地下鉄・小伝馬町駅(2出口)へ。
龍馬が千葉さな子や千葉重太郎と共に剣術修行をしていた『北辰一刀流剣術・千葉定吉道場(通称は小千葉)跡地(A説)』へ向かう。
駅から徒歩5分。新材木町(現在の日本橋堀留町)近くに椙森(すぎのもり)神社がある。古地図を見るとこの付近が千葉定吉の家である。残念ながら史跡碑などは無いが、歴史好きの間ではここが最有力地と言われている。また、小伝馬町駅前には伝馬牢屋敷跡があり、ここで志士たちの精神的指導者・吉田松陰が斬首刑に処されている。ここが小千葉道場であったら、龍馬はきっと手を合わせに訪れていただろう。
次は築地駅(3出口)へ。
徒歩5分の東京都中央区役所、築地警察署(中央区築地1-1-1)付近の一帯が『土佐藩邸中屋敷跡地』である。龍馬は嘉永6年(1853年)と安政3年(1856年)の2回、江戸へ剣術修行に来ているが、ここ中屋敷は2回目の時に武市半平太と同宿した屋敷と言われている。
続いて有楽町(有楽町線:D3出口)へ。
現東京国際フォーラムあたりに『土佐藩邸上屋敷』があった。ここは嘉永6年(1853年)、龍馬が初めての江戸剣術修行時にまず足を踏み入れた場所であろう。そして、ここから徒歩ですぐの、東京駅(丸の内、南口出口)付近にある八重洲ブックセンターから鍛冶橋交差点付近が『千葉定吉道場跡(B説)』である。上屋敷に龍馬が住んでいたとすれば、徒歩1分のこの地は通いやすい立地なのだが、下士身分の龍馬が上屋敷を常宿に出来たかどうかは疑問だなあ。ちなみに名著「竜馬がゆく(司馬遼太郎)」では、この地を龍馬通学の道場としている。八重洲ブックセンターには龍馬本が平積みになっていたので、思いを馳せながら立ち読み。龍馬関連書籍の多さにブーム到来を感じた。
黒船を目の当たりにした龍馬
さあて、いよいよ龍馬さん江戸聖地巡礼も仕上げにかかってきた。
ここからはワタシのお気に入り聖地なのである。目的地は、京急・立会川駅だ。龍馬好きの人でも「なんで立会川?」と首を傾げるこの地。しかし、こここそ龍馬開眼の聖地なのだ!
京急・立会川駅を出て右側にある立会川西商店街には「お帰りなさい龍馬さん」の横断幕がかかっているが、あんまり盛り上がってないなあ(笑)。ここを右折して歩くとある品川区立浜川小学校のグラウンド脇に『土佐藩品川下屋敷跡』の史跡説明板がある。若き龍馬は、ここに宿泊し土佐藩抱屋敷(浜川砲台跡)の警護に動員された。
ここの小学校に通っている子供たちは、龍馬や土佐藩士が寝泊りした場所で学んでいるんだなあ。おんしらコジャンと学ばんといかんぜよ!
いよいよ、今回の巡礼最終地・浜川砲台跡へ向かうのだが……。
食事もしないで巡礼してきたのでここらで飯を食いたい。実は立会川駅前には特別なメニューがあるのだ。その名は「龍馬カリー」!
なんたる便乗商法、しかしこれぞ観光の醍醐味なのである。墓マイラー(墓参りする人)や、散パー(散歩する人ね)は、便乗商法が大好きなのだ、ミーハーなのだ、がはははは。
コンタロウ先生らを引き連れて駅前をうろうろしたのだが無い、無いんだよ、龍馬カリーの店が。おまけに駅前に立っていたはずの龍馬銅像も無くなっている。これは一大事と駅近くの古い八百屋さんに尋ねたら「カレー屋さんは廃業、銅像は移転された」そうだ。大河ドラマ特需で客がわんさか来るだろうこの時に、なにやってんだーっ!
しょうがない、空腹のまま立会川駅左側の商店街を浜川砲台方向に歩くと……30mほど歩いた左側の児童公園の角に龍馬像が立っていた。おやおや、NHKのロケ隊もいるじゃないか。これはきっとドラマの最後に流れる「龍馬伝紀行」用の撮影であろう。ワタシがちょろっと写っていたら嬉しいぞ、放送日が楽しみだなあ。チョイ役で出るのは好きじゃないが、たまたま写っちゃうのは大好物だ。龍馬さんの景色に同化するギュウゾウとコンタロウ先生、がははは。
公園に立つ龍馬像は、台座を含めると高さ4m弱の堂々たる像で、高知市のホテル南水から寄贈された物だそうだ。しかし、銅像風だがよく見るとFRP製で、叩くとポンポンと軽い音がする。今回、巡礼に持ち歩いた龍馬机上像とこれは同じデザインなので、一緒に記念撮影をする。ちょっと見に、この像はちゃちい感があるのだが、よく考えると、この地に龍馬像があることに意義があるのではないかと思えてきた。全国には数え切れないほどの龍馬像がある。しかし、こいつのように、高知~立会川駅前~浜川砲台跡地~公園と足繁く移動した像はあるまい。忙しく走り回った極めて龍馬さんっぽい。立会川の龍馬像、こうして見るとなかなかいい像だ。
公園からすぐのお蕎麦屋さんに「砲台そば」という観光地メニューがあったので、そこで遅い昼食をとる。板橋駅前の新選組墓所近くの店舗には、甘党だった近藤勇にちなんだ「イサミあんみつ」や、芹沢鴨の名から鴨そばにセリがのった「芹沢鴨そば」などのユニークな便乗メニューがあるのだが、この砲台そばは普通の天ざるだった(笑)。竹輪天を大砲に見立てるとか、鰹節(土佐の名物)を振るとか、四万十の手長海老をのせるとか、なんかアイデアはあって欲しいものだ。龍馬○○というメニューがあったら飛びつく用意は出来てます。立会川にある食堂主のみなさん、御一考を!
お腹もふくれたところで、
浜川砲台跡へ向かう
嘉永6年(1853年)6月、ペリー来航時に土佐藩はここへ砲台を築いた。運河が工事中で分かり難いが、東京都水道局ポンプ室の建物の奥に「浜川砲台跡」の看板があり、ここに大小混じって石が6個展示されている。これが発掘された砲台石垣の石である。思ったより展示場は小さいので驚いたが、見上げると目線の先には運河に立つ水道局の建物に描かれる可愛い龍馬のキャラクターがあった。
現在の品川は埋め立てが進み、往時の面影もないが、かつては間近に海が広がり、悠然と進む黒船が見えたのだろう。警護を命じられた若き坂本龍馬は、ここで見た光景に衝撃を受け、9月には父八平へ「異国人の首を討ち取って帰国する」と手紙を書いている。
この時点では無鉄砲で過激な若者だった龍馬だが、この後に驚くべき人間的成長をとげ、ご存知の通り維新の立役者となった。
今は見えない大海原だが、龍馬お得意のポーズを真似て手を懐に入れ運河を臨む。う〜む、磯の香りがかすかに漂うぜよ~。
以上、江戸龍馬聖地巡礼は、勝海舟私邸跡、小千葉道場・A説、B説、土佐藩邸上、中、下屋敷、立会川龍馬像、浜川砲台跡。11時~16時で8ヶ所を回る強行軍でしたが、無事「龍馬の青春・江戸聖地巡礼」完了。
年表を追った行程ではないので、スタンプラリーのように地図を埋めながら巡っていただければ幸いである。
次号は、いよいよ京都へ足を伸ばし墓参る!!











