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ぶらり偉人の旅「龍馬編」第二弾

薩長同盟や大政奉還など、龍馬がかかわった偉業の多くは京都で成就しており、見所満載だ。しかし今回は、少し目先を変えて、龍馬の妻、おりょうさんとの恋愛の地を巡礼し、墓参したい。

おりょうさん

まずは、龍馬の奥さんである「おりょうさん」の紹介を。

 本名は楢崎 龍(ならさき りょう)。一般的には「おりょう(お龍)」で知られている。天保12年6月6日(1841年7月23日)、京都の町医師の家に生まれる。おりょうの懐古談をまとめた「反魂香」によると、龍馬とは三十三間堂の南大門の南側にあった隠れ家で出会ったそうだ。その後、恋に落ちて夫婦となるも、龍馬は暗殺に遭いわずか11カ月の短い新婚生活となった。

 明治維新後、おりょうは神奈川県横須賀市に移り住み、明治39年(1906年)11月15日に亡くなった。龍馬とおりょうが祝言(結婚)後に旅した九州旅行は、日本初のハネムーン(新婚旅行)と言われている。

今回の偉人墓地の旅は、名づけて、京都・恋する龍馬の聖地巡礼!

01.jpg坂本龍馬 おりょう「結婚式場跡」

龍馬の妻おりょう独身時代寓居跡碑

 歴史地理研究者・中村武生氏と京都龍馬会のご尽力で、龍馬を偲ぶ碑やパネルが京都の市街地にドーンと増えた。

 このおりょう碑も最近立ったものである。
 場所は京都府中京区木屋町通六角下る東側。高瀬川沿いの繁華街にパネルと共に立っている。ビルの中にある『みやこ横丁』という飲食店街入り口が目印になる。石碑の解説によると、正確な位置は特定できないが、この付近であったということだ。

坂本龍馬寓居跡

 京都滞在中の龍馬は材木商酢屋(中川嘉兵衛方)に身を寄せ、ここを海援隊屯所としていた。この地(中京区河原町通三条下る一筋目東入北側)には石碑が立ち、現在は、一階が「創作木工芸酢屋」、龍馬をかくまった二階は「ギャラリー龍馬」として公開されている。酢屋の前の道は龍馬通りと呼ばれ、いつ行っても観光客が記念撮影をしている名所である。海援隊のメンバーも龍馬と一緒に酢屋へ宿泊していたそうだ。

 ちなみに、京都・土佐藩邸は酢屋のすぐ近くにあり、現在は高瀬川沿いに「土佐稲荷」とともに石碑が立っている。こんな近くなのに藩邸で寝泊りしなかったのは、酢屋で仲間と一緒にいるのが楽しかったからか。酢屋の二階はきっと、わいわいと賑やかであっただろうなあ。

02.jpgお龍 独身時代 萬居跡碑


03.jpg坂本龍馬萬居地跡

龍馬・おりょう、祝言の地

 二人が結婚式を挙げた場所である。
 ここも新しい名所。『坂本龍馬 妻お龍「結婚式場」跡』と刻まれた石碑とパネルは、東山ユースホステルの前にある(東山区三条通白川橋東入南側)。ユースホステル関係者のご好意で、石碑の背にはガラス越しに龍馬やおりょうの写真などが飾られている。

 解説書きによると、一般には慶応2年(1866年)1月の伏見寺田屋遭難のあと、西郷隆盛(あるいは中岡慎太郎など)の媒酌で二人は夫婦の契りを結んだようにいわれているが、この話は根拠が薄く、他の史料との検討からおりょうの回想録にある「元治元年(1864年)8月初旬、当地本堂で、坂本龍馬と妻お龍(鞆)は『内祝言』、すなわち内々の結婚式をしました」に信憑性があると書かれている。
 当時は青蓮院の境内で、その塔頭金蔵寺(こんぞうじ)であった。二人は仏前婚だったのかな。

 ここは幸せの絶頂にある二人の記念地。だが、当時は池田屋事件(7月)や禁門の変(8月)の直後であり、京都市中は戒厳令状態。二人は別居婚状態となっていく。

04.jpg坂本龍馬 妻お龍「結婚式場」跡1
05.jpg坂本龍馬 妻お龍「結婚式場」跡2

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池田屋

 聖地巡礼はここでちょっと脱線。
 ながらくパチンコ屋さんの片隅にひっそりと立っていた、新選組急襲で有名な『池田屋』跡は今……居酒屋になっている。

 店名は『海鮮茶屋 池田屋 はなの舞』。
 実はワタシは新選組贔屓であるので、ウキウキと、予約をして一杯やってきた。中には、近藤勇、土方歳三、沖田総司の顔出し記念写真パネルや、映画『蒲田行進曲』で有名になった階段落ちセットみたいな長~い階段など、マニア垂涎(すいぜん)のイイ味出したお店。

 約150年前、志士らがこうして飲んでいるときに、新選組局長近藤勇が「御用改めである!」と入ってきたんだなと、想いを馳せる。
 ワタシはパチンコをやらないので、この地がこうして幕末を感じる場所になったことを、もの凄く歓迎する。

06.jpg海鮮茶屋 池田屋 はなの華1
07.jpg海鮮茶屋 池田屋 はなの華2

坂本龍馬遭難の地

 坂本龍馬・中岡慎太郎遭難の地(近江屋跡)石碑は、昭和2年に京都市教育委員会により立てられてた。この地も他所と同様に、幕末ファンが見ると、蔑(ないがし)ろにされていた地なのだが、今回ひさびさに聖地巡礼したら、旅行代理店だった場所はコンビニの「サークルK」になっていて、まるで展示されているが如く石碑や解説パネルが立っていた。嬉しい。超高度成長時には邪魔者のように扱われていた石碑などが、偉人の意志と共に、今、見直されているのだ。

 まあ、観光名所として客引きの種としているのかもしれないが、それでも蔑ろにされるよりは良い。
 諸説あって、未だに暗殺者は特定されていないが、日本の進む方向をを大きく変えた「薩長同盟」を成し遂げた偉人、坂本龍馬と中岡慎太郎は、この地、近江屋で慶応3年11月15日(1867年12月10日)の夜兇刃に倒れた。

 ここから土佐藩邸は近かった。
 二人を刺客が狙っているという情報は龍馬のもとに届いていたらしいのに、なぜ安全な藩邸に身を寄せなかったのか……暗殺の黒幕は諸説あるが、今となっては闇の中だ。

 龍馬が暗殺された時、おりょうは、豪商の伊藤助太夫の邸宅に預けられており難を逃れた。龍馬死後、伏見の寺田屋事件で龍馬を守った三吉慎蔵の元に身を寄せていたが、三吉は慶応4年(1868年)3月、おりょうを土佐の坂本家に送り届けている。この時、おりょうは、龍馬からの数多くの手紙は二人だけのものとし、すべて燃やしてしまったそうだ。




08.jpg坂本竜馬・中岡慎太郎遭難の地

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円山公園の龍馬銅像、霊山歴史館

 円山公園にある大きな龍馬と慎太郎の銅像を見つつ霊山歴史館へ。公園から維新の道までは思ったより距離があるのだが、道中には新選組を割って伊東甲子太郎らが組織した「御陵衛士」の屯所があった高台寺などがあるので、体力が余っていたら人力車やタクシーではなく歩いていきたい。

 霊山歴史館には、多数の逸品が所蔵されており、龍馬が使っていたピストル(レプリカ)や、暗殺時に掛かっていた掛け軸、龍馬を斬ったといわれる小刀などを見ることが出来る。志士の遺品だけではなく、新選組局長・近藤勇所用鎖帷子(かたびら)や、土方歳三、沖田総司の銅像なども展示されている。

坂本龍馬と中岡慎太郎の墓

  さあ、聖地を巡礼し、いよいよ龍馬さんのお墓参りだ。

 坂本龍馬のお墓は、中岡慎太郎と共に、京都東山霊山(りょうぜん)にある。
(京都市東山区清閑寺霊山町1)

 墓所へは拝観料300円を払い、山手線の改札みたいな自動もぎり所を抜けて向かう。墓所に向かう階段脇には、思い思いを書き綴った奉納石版が並んでいる。

 この墓所にある明治維新史蹟「旧霊山官修墳墓」では、明治維新実現の為に尽力した維新の志士1043名の霊(みたま)を祀っており、主な志士には、高杉晋作、桂小五郎(木戸孝允)と幾松(木戸松子)、品川弥二郎、大村益次郎らの長州の偉人に武市半平太。池田屋事件で亡くなった志士たち。その他では、漫画『るろうに剣心』のモデルといわれている幕末四大人斬りの一人、熊本藩士・河上彦斎などの墓石がある。

 霊山の中腹まで登ると坂本龍馬・中岡慎太郎のお墓がある。

 墓所は、忠魂碑、二人の銅像と共にあり、龍馬の墓からは京都の市中を一望することができる。墓石には花が絶えることはなく、毎年、龍馬の命日であり誕生日(旧暦)である11月15日には、墓前祭が開かれているそうです。その日は、おりょうの命日(グレゴリオ歴)でもある。

 今回は、妻・おりょうさんとの思い出の地を中心に聖地巡礼した、墓地の旅となりました。

 土佐藩士・佐々木高行によると、おりょうは「大変な美人」であったそうだ。横須賀で亡くなったおりょうの骨は、龍馬の眠る京都霊山護國神社に分骨されているそうだ。

 維新の志士たち。
 龍馬とおりょうに。
 合掌

09.jpg円山公園


11.jpg京都東山霊山入口
12.jpg奉納石版
13.jpg坂本龍馬(左)の墓の前で

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●ギュウゾウ(電撃ネットワーク)

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